大衆の思い上がりが諸悪の根源
2,3日前にyoutubeで、キュー機能を使って、さだまさし君の歌を聴いていて、そこでもさだ君も「不幸のはじまりは思い上がりだ」と小さな声でいっていたが、大きな声で言うと、歌が売れなくなり、歌手廃業になるので、小さな声ではあるが。
朝、有線放送付属サービスで、NHKのラジオを聞いていたら不愉快ないじめの話なので、チャンネルとFM新潟に変えたら、竹内まりあのことをしゃべっていた。
彼女は割りとすぐに結婚して、結婚して子育てしながら、歌も作っていて、有名なヒットソングなんかは、こどもが生まれたばかりの一番大変な時期に作ったと、子育てと仕事をちゃんとりょうりしたことを、偉いといって、
<オイオイ、そこに持っていくのか>
彼女はきっと普通の人の2倍は努力されたんだと思います(感動の静けさの余韻)
って、しゃべっているので、不愉快になって、BGMに変える。
この放送の視聴者が十数万人いるんだろうか、今の2倍の努力をしても、竹内まりあと同程度の仕事を残せることは「絶対に」ない。
「絶対にない」ことは真実であるが、真実は視聴者様を不愉快にさせる。
それでは、視聴率は取れない。番組打ち切りであり、パーソナリティーの失職である。
ラジオのパーソナリティーは、視聴者様が聞いていて愉快になったり、なるほどと思うようなことしか、いってはいけない。
これは、テレビでも、映画でも、メッセージソングでも、小説でも、そして、ニュースといわれるワイドショーでも、おなじである。
本当か、お世辞がなんて、関係ないのである。
視聴者様が、読者様が、共感を得るかである。
だから、大衆は自分を見て感動しているのである。
ちょっとだけなら、変えてもいいが、ちょっとだけであって、お世辞をちょっとだけ変えても、真実からは程遠い。
大衆による政治が出鱈目なのは、当然といえば、当然のことである。
出鱈目なことを信じて、出鱈目ゆえに実現しないが、その責任は為政者に押し付ける。
自分は絶対に傷つきたくはないし、気づくのも大嫌いである。