初の死刑判決(つらいのはメタボが原因)


つらいのは、普段何も考えていないのが理由。

例えば、車を運転すれば、横道から急に飛び出す自転車は避けられない。轢き殺してしまうが、実際に交通事故で毎年何千人も死んでいるのだが、その覚悟をして車を運転してはいない。たまたまその場面に遭遇した人だけが、一生苦しむ。

餓死者を助けようというNPOに、千円も寄付すれば、何人かを何日か、命を助けることができるが、しないで、お肉やケーキを買う。

人の言葉や行いで自殺するほど悩んでいる人も、全国レベルでは何万人もいる。

普段から、ちゃんと考えて生きていれば、死刑判決なんて何でもない。

相手は、一時停止を怠っただけとか、飢餓地域に生まれてしまったとか、感受性がちょっと敏感すぎたとか、些細なことで死んでしまうのではない。

ちゃんと残虐な方法で人を殺すつもりで、殺した人間である。

死刑を言い渡すのになんのためらいが必要が?

そいつのお隣さんになって生活できるか想像してみるだけでもいい。(ま、こいつは、出世のために悪の組織の幹部を殺したのだから、悪の組織の幹部になるつもりの無い人は、危害を加えられないから安心できるのかもしれないが、悪の組織の抗争の巻き添えを食う危険はある)

自分がお隣さんになるはずはなから、そんなことは考えないのは無責任である。ただ、この程度の無責任は一生貫いても、大多数の人は何の問題も無く一生を過ごせるのだが。

普段、何も考えずに生きていたから、たまにちゃんと考えなきゃいけない場面に遭遇するとつらいだけである。

普段走っていないメタボな人が、1kmちゃんと走らされて、「死ぬほどつらかった」と言っているのと、同じである。

死ぬほどつらかったのは、1km走らされたせいではない、メタボが原因なのである。