砂漠に埋まる都市

上越は雨が降らずに農作物は大被害らしい。

用水は枯れていないが、川の水を引けない山間部の水田は稲枯れ。その前に、畑の野菜、もっと前に家庭菜園の畑。

しかし、叢の木や草は、枯れてはいない。(除草剤を蒔かれた叢は除く)

人工物の不完全を知る。

保全にはかなりいいはずの山間部の棚田も、人工物ゆえのある程度の不完全さを持ち合わせているのだろう(何十年に一度のことらしいが)。


稲が植わっている棚田では、稲が枯れることで、不完全さに気づくことができる。

しかし、アスファストで固められた都市の不完全さには、なかなか気づかない。

アパートで、一人暮らしの老人が熱中症で死んでも、それは、人工物の稚拙さのせいだとは、誰も気づかない。

日本文化のピークだった江戸時代では、集合住宅の水は、集合住宅住宅にひとつしかない井戸である。

ひとつしかないことは、人工物の不完全さを補うものであったことに気づくのである。

大雨で下水道から水が逆流して溢れても、不完全に気づかない。

洗剤や薬品を使い捨てしないことで、下水道そのものを不要にする生き方に、真のエコを理解する人はいるのだろうか。

数百年後、都市が砂漠に埋まっても、「茹で蛙」のように埋まった当人たちは気づかない。

何千年後に、遺跡を発掘した人が、そのおろかさに気づくのだろうか。