考察:大衆政治(9)

プロパガンダの例をいくつか挙げてみる。

1.政治不信→投票すべき候補者がいない、誰が当選しても同じ→棄権→固定票の力増加(20%の固定票は、4割の投票率では、ほぼ過半数だが、7割では影が薄れる。極端な話、投票率が2%なら、固定票は1%で、十分力を持つので、固定票の為にくすねてくるお金がとっても少なくて済むので大助かり)

やたら、どうでもいいことで、政治家を追及する。

大衆は、馬鹿なので、自分たちと大差ないように思える人物が、偉くなったのは、きっとなにかズルイことをしたんだろうって、思う。

いくら大衆受けのする政治家であっても、当選するには、「それなりの努力」をしてはいるのであるが、大衆は「それなりの努力」一生しないまま、死んでしまうので、政治家がやった「それなりの努力」については、理解できない。

なので、なにかずるいことをやったとなると、「やっぱりなぁ」って安心するというか、ストンと納得する。

政治スキャンダルが報道されて、解説者がまじめな顔で解説すると、大衆は溜飲を下げるのであるが、それを、自覚するのは不快なことであるので、「やっぱり政治家なんか信じられない」とか「政治家にはろくなやつがいない」っていうところに、落としたがる。

そして、選挙なんで馬鹿らしいから行かないってところに、もっていって、固定票を持つ権力者を喜ばせる。

政治不信は、このように、権力者にとって、とっても喜ばしいことなのである。

まあ、支配者様B様というのは、選挙ではなく、クイズで権力を手に入れるので、選挙でちっちゃな権力をもったやつらに、とやかく言われるのが、イヤである。従って、そういう意味でも、政治家への政治不信は、喜ばしい。

よく、子供を泣かす馬鹿親は「◎◎しなさいって言ったでしょ」もしくは「◎◎しちゃいけないって言ったでしょ」である。

プログラムしたとおりに、動くのはコンピュータだけだというのに、人間に向かって、そういうというのは、単なる罵倒である。が、本人は自覚しない。正しいことを言っていると思う。

政治も、それが正しいということが原因となって、結果としての政治が行われることはないのであるが、正しいことが、正しいゆえに実行されるべきであると、洗脳されているので、正しいことが正しいという理由だけでは、実現しない政治を目の当たりにして、政治不信になる。

ま、大衆が納得する「正しいこと」はそれ自体まったく危ないことなのであるが、とくかく、馬鹿なので、結果は政治不信に行き着くように仕組まれている。