竜馬伝(大砲で日本を守る)

勝が幕府の要職に就いた理由

外国船は、ペリー以前もたくさん来ていた。それらは、みな追い返せということで、幕府は外国船のきそうな藩に、沿岸警備を命じた。

で、沿岸警備であるが、海に浮かぶ船に抜刀隊が海上を走っていって切り込むわけにはいかない。
海上警備隊の様な小型武装高速船が一番なんだろうが、金がかかる上に、だれも操縦できない。

そこで、「大砲をぶっ放して追い返せ」って発想になる。
この発想は、先の長州の攘夷が妄想家のたわごとであると、実証してしまった下関戦争まで続く。
明治になっても、東京湾を大砲で守ろうって妄想した長州が作りかけたのが、「お台場」である。砲台を置く場所で、お台場である。

で、大砲の需要が高まったが、平和で1社しか残っていなかったので、新規参入が蘭学の書で大砲の製造を学んだ佐久間象山勝海舟の男谷家である。幕末活躍した人は、ほとんど佐久間像山の門下生である。(勝、竜馬はもとより、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助、徳川の血を引く春嶽公もそうである)

勝の妹が佐久間象山に嫁いでいるので、勝の男谷家は、象山から作り方を指導されたのかもしれない。

注文が急増したので、老舗は、多少の不良品でも出荷、象山も試射で大砲を一台暴発させているので評判を落とす。で、出荷検査の厳格な(賄賂を一切受け取らずに作り直しを命じたらしい)勝の男谷家が株を上げたのだと思う。

勝は家茂の時の、講武所砲術師範である。

で、大砲を船に乗せたのが軍艦だとすれば、勝が軍艦奉行になるのは、当然である。

竜馬も土佐で砲術を勉強していたから、溝渕広之丞といっしょに江戸の呼ばれたのである。

大砲を船に積むのが戦艦であるという思いが、戦艦大和を生んでいく。

戦艦大和も日本を守るのにちっとも役にたたなかった。精神の拠り所にはなったようだが。