竜馬伝(山内容堂が土佐勤王党を支援していたら)
攘夷は普通勤王で、佐幕は開国が普通。
なのに、当時の天皇は、攘夷で佐幕。
なので、勤王攘夷派とは、攘夷で一致するし、開国佐幕派とは、佐幕で一致する。
京都は2派あって、6月に勅旨を連れて江戸幕府に圧力をかけたのが佐幕開国派の島津久光(佐幕といっても、改革推進派で、幕府の旧守派に圧力をかけにいった)、11月に三条実美を連れて江戸に行ったのが勤王攘夷派の土佐勤王党。
6月の島津久光の圧力で、京都に加わったのが、佐幕を貫く会津。会津を京都に連れてきたのが、薩摩の国父島津久光なので、薩摩は会津と仲良くなる。
これに先立って、江戸上洛の前、京都入洛の段階で、島津久光は、薩摩自藩の勤王の急先鋒の有馬新七一派を処分している。薩摩は勤王ではなく、佐幕を選択したのであるから、当然の処置である。
島津久光が地元薩摩にいたのに対して、山内容堂は遠く離れた江戸、土佐勤王党は、土佐在住の藩主の山内豊範を抱き込んでいるので、中々手が出せなかった容堂ではあったのだが、地元土佐に戻って、ようやく勤王派の処分ができた。
勤王を貫いた長州は、後に幕府から軍を差し向けられることになる(第一次第二次長州征伐)。交渉に当たったのが親勤王派の西郷隆盛だったので、長州藩は取り潰しを免れたが、家老3名切腹である。土佐が勤王を貫いて、結果、征伐の兵を向けられた場合、西郷隆盛のように仲裁してくれる人物はいないので、取り潰しは免れなかっただろう。
それの動きを察知して、土佐征伐回避のための、平井ら3名の切腹である。
それだけでは、足りないというので、土佐勤王党を入牢させるが、それで、土佐藩取り潰しが免れたのであれば、土佐藩の国父としての働きは、立派なものである。
平井収二郎もその辺はわかっていたと思う。
下関戦争で、攘夷の失敗は理解できただろう。
会津が京に入ってきて、勤王派の敗北を知ったはずである。
選挙に落選した国会議員のように、粛々と切腹したと思う。
倒産した社長が借金で頭が一杯の様に、収二郎は、家の存続で頭が一杯だったろうと思われる。家というのは、当時の会社なので、社長が切腹することで会社が存続できるのなら、万々歳。倒産した会社では社長が自殺しても倒産は覆らないが、切腹なら倒産が覆るのである。何事も無かったかのように会社が存続するのである。