龍馬伝 弥太郎の父の騒動


この中の、事実の部分は、PHP文庫の立石優著の岩崎弥太郎の受け売りです。

井口村では、年貢米用に共同の田を開墾することになり、百姓たち数十名が開墾に参加して、田を作ったのだが、問題の便右衛門は、後から開墾に参加して、十分な作業もしないのに、偉そうに収穫した米の蔵出しをしていて、また、その蔵出しに不正があったというので、共同の田を開墾した百姓達が怒り、便右衛門に乱暴して、内3人が牢に入れられた。

弥太郎の父は、この百姓たちの方を持ち、便右衛門を盗人呼ばわりしていたらしい(岩崎家の本家が弥太郎の父(しかし郷士株は売ってしまった今は無い)で、分家で郷士株を売っていないのが便右衛門)。

で、他にも便右衛門は、自分の田に勝手に水路を作っちゃうというので、下流の百姓から文句が出ていた。便右衛門は、他所者で、この程度のことでなんで、問題になるのかが、よくわからなかった。で、争いは3年も続いたが、ようやく庄屋の仲介で、庄屋の家で手打ち式の宴が持たれたのが当日。

まだ早い時刻に、酔いつぶれたように見える弥太郎の父が担ぎ込まれたと、近くの家の女房が知らせに来て、程なくその家の長男に担がれて、意識不明の弥太郎の父が家に戻ってきた。よくみると傷だらけである。

翌朝一時意識を取り戻した弥太郎の父が「やつらにやられた。残念」っていうので、弥太郎の母が調べて、偽の診断を頼まれたという医者も見つけることができたので、親戚の行政書士(相当の人)に訴状を作ってもらい役所に届けるも、証拠が無いし、酒で暴れる前科者ということで、却下。

万策尽きた弥太郎の母が弥太郎に手紙を届けたのが、3ヵ月後。手紙には倒れて動けなくなったことしか書いてない。

弥太郎は、自分の江戸行きの旅費のために、山や田を売ってもらっているので、戻る。

戻って事情を知った弥太郎は、激怒して、自分で訴状を書き直して訴えるが、便右衛門の手が回っていることもあって、相手にされない、頭にきて、帰りがけに役所の白壁に例の文句を大書。事は賄賂を持って成し、獄は増愛を持って決す。名文である。

この落書きの罪で弥太郎は半年投獄される。何のために帰ってきたのかわからない。

しかし、お殿様は、弥太郎に詩文の才能ありと、表彰したのを覚えているし、幕府から意見書を求められたりして、人材を欲している所である。家柄だけで、役職を世襲しているやつらは、激動の時代には、どうしようも無い怠け者で、役立たずの石潰しであることを痛感している所だったので、半年後に、役立たずの石潰しと判断された便右衛門と便右衛門方の村役人2名は処分。

弥太郎も村を追放の処分である。

しかし、このことは、わずかばかり残った岩崎家本家の田畑の農作業(姉夫婦がやったようだ)を弥太郎はできないということなので、後の弥太郎のことを考えると、道は学問による出世しかないと退路を絶たれたようなもので、かえってよかったといえる。

村を追放された弥太郎は、神田村で、家老の家来の家を間借りして塾を開くので、そこまで考えてのお殿様(山内容堂)の藩内の人材育成策だったのだろう。