天地人ですっ飛ばしているところ:会津移封


天地人もいまやあの女性脚本家が、自分ワールドで好き勝手やっているのが、かえっていい味だす様になったので、また、見出した。
で、単なる転勤の様な会津移封について、その必然性について一言。
謙信亡き後、景勝は、東西に敵を持っていた。
佐々成政新発田重家である。
両方とても強い。景勝と五分である。
新発田重家との戦いではかねつぐは、負けて殺されそうに成っているし、佐々には、魚津城を奪われたままだし、留守中に起こした富山奪回をもくろんだ反乱も、見事失敗している。
しかし、佐々は、政治的な力関係で反豊臣連合というか、秀吉が簒奪しようとしている織田家を守ろうとした側に付いたため、秀吉に屈する形で富山を去ってしまう。

景勝、かねつぐからしてみると、棚ぼたの勝利である。
1585年の事である。

翌年お礼に上洛しているが、佐々との戦費に比べれば、安いものである。

そして、中央の秀吉のバックアップを得て、東の新発田重家を翌年滅ぼしている。
さらに、佐渡、出羽荘内への進出も黙認してもらう。

景勝にとって、秀吉は大恩人なのである。
新発田重家を滅ぼした翌年には、かねつぐは、豊臣姓をもらっている。88年。

89年佐渡平定。
90年小田原出兵。
91年庄内平定。
92年、93年朝鮮出兵
94年、新しく領地を広げた上杉家臣団の知行上納高定める。
   かねつぐ伏見城普請奉行。
95年、越後と信州の検地。

一方会津は、上杉が庄内を平定した91年、信長の家臣団の一人蒲生氏郷が、伊達政宗先導の反乱を制圧して、会津を治め始めている。いわゆる戦国武将の心をつかむ術に長けた氏郷は、よく会津を治め、徳川、毛利に次ぐNo.3の大名にまでなっていたが、残念なことに96年、40歳の若さで急死。その後を継いだ長男は数え年で13歳だから、領内の戦国武将たちを治められるはずも無く、会津は内乱状態へ。
しかし、翌年は、第2次朝鮮出兵なのであるが、かねつぐは、伏見城の改築奉行って事で、朝鮮出兵を免れる。で、1年して改修工事も終わり、いよいよ上杉も朝鮮出兵かって時に、乱れている会津も心配ってことで、朝鮮出兵の代わりに会津出兵ってこと。朝鮮と比べればよほどましと、ほっとしている者も、多かったはずである。

が、結果的にこれが豊臣政権の失敗。
というのは、それまで伏見城に入りっぱなしだったかねつぐと入れ替わりに、伏見城に入ったのが、徳川家康で、その時に、秀吉が死んでしまう。

死んだときに枕元にいたのが、悪いことに徳川家康
後の政権の主導権を徳川に握られてしまうことになる。