天地人の違う所(お館の乱)

謙信が倒れたので出陣の予定は、急遽変更せざるを得ない。
景勝の上田衆、景虎栃尾城の山古志勢、琵琶島城、柿崎城の刈羽勢の他に、後に景勝と越後を2分して戦う、揚北衆がいる。
倒れたが死んではいない謙信(いびきをかいてこん睡状態)なので、延期か中止かとにかく、自陣の指示の他に、揚北衆への対応が大変であったろう。
どちらかというと謙信の武力で従っている揚北衆、勢力も上田衆と同等、謙信の死を好機と、攻めかかられては大変。
景虎はお帰りいただくのに、相当気を使っているはず。
謙信が死に後をついだわけではないので、正式な命令は出せない。
でも、穏便に帰ってもらわないといけない。

その点、景勝は第一の家来って感じで、気が楽。

揚北衆への対応に全身全霊を費やしている景虎一派(たぶん関東管領兼守護としての軍令を出せる謙信の後継者)を見て、守護代としての謙信を引き継ぐ予定の景勝は、好機と判断したのだろう。

しかし、今動いては揚北衆との3つ巴になる、というか、揚北衆景虎に従うだろうから、倍以上の敵との戦いになる。

本来本丸に居るべき謙信の側近たちが各地に飛び回って、謙信の死を公表してもいいと判断したのが、倒れてから4日後の13日。

そこから揚北衆は帰路につく。
そして、揚北衆が帰路につくのを謙信の側近や景虎一派は見送らなきゃいけない。実質は監視であるが。

で、人の出払った本丸を「謙信の遺言」と称して、占拠し、膨大な軍資金を抑える。ドラマのような葬式どころではない。
過去にたくさんあった、守護と守護代管領守護代の戦いに備えたともいえる。

そして10日後の24日には、謙信の後継者であることを宣言する。

自分で宣言しても、どうにでもなるものではない。調停や将軍に認めてもらって始めて意味がある。
景虎は、将軍や京の朝廷と連絡していたんだと思うが、残念なことに、朝廷や将軍から位を貰うために必要はお金が、ない。「(景勝が)揚北衆から軍資金を守ったのは、わかるが、(自分=景虎管領守護職を貰うのにいるから、その分寄こせ」って、景虎は景勝と交渉していたんだと思う。
当然義理の兄(武田勝頼)(景虎武田信玄の養子だったので)と実の兄(北条氏照)とも連絡取っている。

で、はっきり景勝が反旗を翻したのが5月5日。
この時景勝は、当時の貿易で栄えた直江津(当時の呼び名は今浜)を焼き払っている。今時点の軍資金は抑えても、直江津がそのままでは、そこの関税(京との貿易税)を取れる景虎は、時間と共に軍資金が増えていくからだろう。
しかし、コレでは、善光寺門前町を戦火で焼かないようにって、川原で戦争した(川中島)謙信の美徳は踏みにじられることになる。

しかし、5月末の勝頼進軍で氷つく。春日山まで歩いて30分というか、春日山の麓の村、加賀街道を右に折れて、直江津に向かう分岐点の村(私の居る村です、現上越市の市役所所在地の町名)まで進軍。進軍しても戦いがないのは、跡継ぎの景虎の義兄だからだろう。

あっという間に景勝は降伏して、和議を結ぶ。その年の内に景勝は勝頼の妹と婚約させられ、翌年結婚する。
一方、景虎の兄の北条氏照は9月に未だ景虎に従わない景勝を凝らしめるために、景勝の地元の樺沢城を攻め落とし、坂戸城も攻める。坂戸城はかなり不利は条件で降伏していると思う。
会社(景虎)を支援した見返りに、銀行(北条)の役員を派遣するように、家臣をひとり景虎の所に残した。

このままではやられてしまう景勝は、寝技を発揮して、政略結婚したのを機(結婚式の打ち合わせがあるので堂々と行き来できた)に武田勝頼と通じて(家康が秀吉の妹と結婚したのと同じ、勝頼の子分になるようなことを言ったんだと思う、勝頼は勝頼で、春日山城の膨大な軍資金と、復興が不可能なまでに焼き尽くされた今浜をみているし、景虎の兄が北条氏照っていうのも気に入らない)、乾坤一擲の勝負に出て勝利。2月1日だから、まだ雪が多く残っている時、虚を突かれた景虎が敗北って所。

謙信以前は守護代と守護、守護代管領の争いは日常的にあったことなので、昔に戻って、謙信の父長尾為景と同じに、守護や管領に勝利して越後を一時的に平定した景勝っていう感じだと思う。