江−利休切腹


信長の頃、茶会を開くのには、信長の許可が必要だった。

秀吉の頃も、同じだったと思われる。

また、秀吉は、茶の師匠として、自身と利休のふたりを決めた。

裏千家表千家といえば、他の茶道のひとから、怒られるだろうか。

表千家の秀吉は、赤の派手好み、裏千家の利休は、黒の渋好み。

北野の大茶会の頃までは、ふたりは仲が良かったようだ。

一説には、黄金の茶室は利休作、天皇に茶を献じる茶会も主宰は利休だったとか。

秀吉の唐入り(自虐史家は朝鮮出兵というが)の目的は、皇帝になるため。

項羽劉邦と同じである。

で、それにふさわしい宮殿ということで、聚楽第を皇居より大きくすることを、細川幽斎と利休に命じるが、恐れ多いので、利休はさぼっていた。というか、どうやって、言い逃れしようと思いをめぐらせていた。

ドラマでは、小田原征伐の時に、利休の高弟が、秀吉に耳と鼻を削がれて殺されたことが省かれている。

また、家康と最後の茶会をしたのは、小田原征伐の後、家康が江戸に移封され、たぶん、失敗しているんじゃなかろうかと、秀吉が検分に来たときである。

秀吉は、佐々成政は、この手法で切腹させている。

しかし、予想以上に北条の遺臣たちを上手く取りまとめている。

もともと、関東の武士は、上杉謙信の頃から、管領様の謙信が来たときは、管領様に従う、管領様が帰ったら、北条に従う。というのを、何十年も繰り返してきた武士達である。

なので、肥後と違って、北条から徳川に乗り換えるのは、お手の物。

そして、減封したはずの伊達政宗もが、いやに生き生きと活動している。

そして、利休はこの二人を頻繁に茶を飲んでいる。

茶会は本来秀吉の許可がいるはずなのである。

利休に言わせれば、茶会ではなく、ただの茶飲みということなのだろう。

始末できると思っていた家康と伊達が、却って生き生きしてしまっているので、秀吉は機嫌が悪い。

聚楽第の工事は一向に進まない。

で、調整役の秀長の心労は、ピークを迎え、倒れる。

もう、秀吉と利休の間を調整するものはいない。

織田有楽斎だかが、調整しようとして失敗。

蟄居、追放、堺(利休の出身地)の堀(堺の自治の象徴)の埋め立て、そして、京への呼び戻し。

利休も意地を貫いて、絶対にわびをいれずに切腹。わび茶なのに、わびは入れない。

切腹を告げにきた使者に茶を振舞った後、切腹したようだ。入れるのは茶だけなのか?

http://www.youtube.com/watch?v=0nMjvoFh92g