江−秀吉の天下統一、内部二年、西四年、東三年

賎ヶ岳の戦いから、二年で四国制圧、前前回では紀州制圧。

九州の島津まで制圧するのにさらに二年。

関東の北条制圧するのにはさらに三年。

賎ヶ岳の戦で、内部抗争に勝利してから、7年である。

信長でいうと、本能寺の7年前は、長篠の戦い

武田勝頼に押されっぱなしの織田徳川が、やっと反撃に転じた戦いである。

これ以降も、本願寺比叡山、雑賀の鉄砲衆、将軍義昭、浅井朝倉、毛利水軍上杉謙信等たくさんの敵と戦いながら、信長は、勢力を広げていくのであるが、

秀吉も、織田家の内部抗争に勝っても外部は敵ばかり。

下手すると、反秀吉というか、反織田家連合を作られてしまう。

秀吉はまず、その核となる危険のある、公家に取り込む。

関白就任である。

貧乏公家にどんどん金を流し込んだのだろう。

(上杉関連で言うと、その金で、越後の織物、青そから織り上げた越後上布が、京でどんどん売れ、上杉家は商売繁盛(上杉家は売り上げ税を関銭として徴収していた)である)

財源は、秀吉のいわばセン民階級が掘ったというか、提供した金だと思われる。

そして、東西の要をたらしこんで取り込む。

東は徳川と上杉、西は毛利と小早川である。

この四者を味方に引き込むことで、じわじわと勢力を伸ばしていく。

小牧長久手は、その転機になった戦い。

いつまでも、織田家の内部抗争をやっていては、外の敵から潰されると、わかったのである。

徳川を潰してしまうと、北条中心とした、伊達、真田、最上の関東奥州連合に、対峙しなくてはいけなくなる。

とても、勝てない。

そこで、和睦して、勢力を拡大するまでは(=九州制圧までは)徳川を取り込むことにした。

まずは、比較的よわっちい西から攻める。

西の、毛利と小早川をたらしこんで、孤立させた四国の長宗我部元親をやっつけたのが、今回。

ま、反秀吉といっても、大概隣国とは敵なので、秀吉から見ると、仲間内で抗争繰り返している。秀吉は、その一方に味方して、他方を潰せばいい。それを順番にやっていけば、西は毛利と小早川しか残らなくなる。

毛利小早川なんかは、最初は、秀吉の力を使って、周囲の敵をやっつけさせて、「もうけもうけ。我策略の成果」って思っていたんじゃないだろうか。