江-小牧長久手の戦い


秀吉は、戦を勝ち抜いて力を獲得した武将ではない。

この前に、山崎の戦、賤ヶ岳の戦いに勝っているとはいえ、よく考えれば織田家の内部抗争である。

彼が戦ったとされる織田家の家臣時代の戦も、墨俣の一夜場、三木城の兵糧攻め高松城の水攻めと、ちゃんと兵と兵とがぶつかる戦いではない。

秀吉が勢力を得たのは、ちゃんと報酬を払ってくれるというのと、口に乗せられた(調略された)というのが理由である。

秀吉の愛弟子の石田三成の関が原も、ちゃんと戦ったのは、忠の武将、宇喜田秀家と、主君の死で行き場を失った戦国武将をちゃんと雇ってくれた、旧蒲生氏郷の本にいた戦国の生き残り武将達だけである。


奇襲攻撃とか言っているが、実績の無い秀吉の指揮で動いてくれるのが、忠の武将の池田(第一陣)、森(第二陣)と、何とか一人説得できた堀(第三陣)と、跡継ぎにしようと、有能な家来を多くつけた秀次(本陣)だけだったのだろう。留守になった家康の居城を狙えというのは、秀吉の作戦だったはず。

秀次は、木下家の代表って言うだけで、畑は作れたろうが、武士の言葉は習得したであろうが、とても、戦の指揮なんかできない。

だから、有能な家来をたくさんつけられて、一番後ろに置いていたのであるが、先頭を行軍していた池田恒興の第一陣が、じっとしているはずの城から、鉄砲で大将の馬を撃ち殺されたからと、猛攻をしかけ、三時間で落城させるのであるが、その間、後ろに続く第二陣第三陣本陣は、前に進めないので、しかたなしに休憩を取っていた。

そこへ、その三時間で一番後ろまで、回り込んだ徳川側に奇襲され、大混乱。

あの今川義元でも、桶狭間で、休憩中に奇襲されて命を落としたのである。

百姓あがりの秀次なんかは、何もできない。

それでも、秀吉直属の武将達は、命を投げ出して、秀次を落ち延びさせる。

秀吉が怒ったのは、この為である。

秀次なんかよりも、秀次を助けるために死んでいった、多くの有能な武将たちが、悔やまれるのである。

本陣の前にいた、第三陣堀。

後ろからの攻撃で、本陣の後ろに構えることになる。

堀家は、上杉家の会津移封後の越後を任されたくらいの、ちゃんとした武将。

本陣の敗残兵をまとめて、徳川の奇襲軍を追い払う。

そして、その地で戻ってきた、第二陣の森、第一陣の池田と合流して家康の本隊と戦うのであるが、あらかじめ陣取っていた家康に対し、後退途中で進路を阻まれた格好の秀吉軍とでは、地の利の差が大きく、第一軍の大将池田恒興、第二陣の大将森長可(鉄砲で狙撃される)共に、戦死。

二人とも忠の武将なので、勇猛ではあるが、戦上手ではなかったともいえる。

戦上手の堀は、ちゃんと後退している。

奇襲はすでに失敗しているので、泥縄で目の前に現れた敵と戦うのではなく、一旦引き上げるのが上策であった。

もしくは、後退せずにそのまま進軍して、家康の居城、岡崎城を攻撃するべきだった。