江:山崎の戦い


光秀を討ったのは、信長の三男、織田信孝だったはずだ。清洲会議で、信忠の子、三法師をたてて、自らは後見人になっている。相続の筋目は立てるが、実権は頂くという意味である。秀吉は、信孝に「三法師様をお連れしろ」と命令されただけであろう。ただの使い走りの使者であった。

三男信孝は、四国攻めの直前で、光秀以上にたくさんの武将の指揮を任されていた。

また、信長、信忠亡き後の、No.3である。

No.2の信雄は、しょうも無い子供であると、評判である。

布陣していた位置も、山崎にとても近い。

信孝が勝ったと言う歴史を書き換えたのは、その後の天下を簒奪した秀吉であろう。

光秀を討った功を、誇られてはいけないので、後に姦計を持って、切腹させている。利用したのは、しょうも無いこどもだけど一応序列は上の信雄である。

信長、信忠亡き後は、一応序列が一番上は信雄なので、秀吉はそこに取り入ったのだと思う。親戚一同を束ねるN0.4の信包も、信雄の近くにいたので、信雄側についたようだ。

信孝は戦は上手だったのだろうが、人身掌握術が今一な所、武田勝頼に似ている。年も若く25歳である。

謀にはからっきし弱く、あっという間に、切腹である。

光秀を討ち果たした武将も、功を認めては、大変なので、土民の槍ということになっている。

この武将は、歴史から完璧に抹消されたのだと思う。

後の前田慶二の朱槍のように、槍は武将のシンボルである。

さぞかし立派な武将だったんだと思う。

だからこそ、完璧に名前は抹殺されたんだと思う。

秀吉が毛利と対峙していたというのも怪しいと思う。あの大返しは、ありえないスピードである。無かったことだからだと思う。

秀吉は姫路城で首をすくめていたのではないか。

秀吉が実際に活躍しだしたのは、山崎の戦いが終わって、信長家中に後継者争いが始まった頃で、戦闘力がからきし駄目だけど交渉力が優れていた秀吉が重宝されたんだと思う。