命はかけがえの無いものというのは違う
1.仲間の命は大切(かけがえが無い)
2.仲間以外の命も貴重(高価である)
このふたつは、分けなければならない。
例で考えて見ましょう。
南北朝鮮で戦争が再開し、10人の日本人が、戦闘地域に取り残され救助を待っているとします。
「自衛隊を出動して助けにいくべし」という話になりますよね。
自衛隊が救助に行ったとして、その大型救助ヘリに、北朝鮮がミサイルぶち込んで来たら、戦争だってことになりますよね。
これは、日本人という仲間だからです。
この十人が中国人であれば、日本の自衛隊を出動させろって話にはなりませんよね。
日本じゃ報道もされないでしょう(中国でも報道されないでしょうが)
仲間は、命に危険を冒しても守るし、仲間のためなら、最悪戦争もするというのが、仲間です。
仲間というのは、日本人というくくりだけじゃないです。
何とか教に入信していれば、何とか教に入信している人が仲間です。仲間以外はどうなろうと関係ないです。
また、仲間を連れ戻そうとするというか、仲間から見れば、拉致しようとする外部の人は敵ですらあります。
仲間は、時には、会社になったり、甲子園では県になったり、選挙のときは支援者グループになったり、運動会ではクラスになったり、ま、いろいろなくくりがあります。
じゃあ、仲間以外の命はどうでもいいのかというと、かけがえの無いものではないのですが、高価なものです。
例えば、前の例で、救助に言った自衛隊が、一発目のミサイルを奇跡的にかわして、2発目を打つ前に、その戦闘ヘリを撃墜すれば、ヘリに乗っている北朝鮮の兵士は死にますが、その命は、かけがえの無いものではありません。
とっても、高価なものです。
戦争になるかもしれませんから。
それでも、自国の10人の命は、かけがえの無いものですから、いくら高価なものであっても、ぶち壊します。
同じ命でも、かけがえの無いものと、高価なものと分けて考えると、ちゃんと説明できます。
戦争でなくても、仲間じゃないからといって、アメリカに行って銃を乱射すると、命をとられてしまうでしょう。命はとても高価なものだからです。
ま、しかし、いくら高価だといっても、一鉢10万円の胡蝶蘭が、水がなくて枯れそうになっていても、自分や自分の仲間のものじゃないときは、知らん顔ですよね。
アフリカで何十万人、餓死しても、知らん顔していますよね。
仲間以外の命は著しく高価なものにすぎないからです。