竜馬伝 薩摩路線と長州路線


開国によって、ぼろ儲けした商人に後押しされたらしい井伊直弼の反改革も頓挫し、再び幕府の改革派が勢力を盛り返した。
中心は、島津斉彬を失ったとはいえ薩摩藩、英俊橋本佐内を失ったとはいえ松平春嶽大老就任)、将軍後継に敗れたとはいえ徳川慶喜(将軍後見)。勅旨の護衛という名目ではあれ6月に江戸に薩摩の兵が入って、実現した。公武一和派である。
もう一派が長州土佐の勤王派である。天皇日本国王であるということで、とにかく騒がしい。京の治安も乱すので江戸入城前に京に入京した島津久光に、粛清された一派である。
長州土佐の勤王派は、馬鹿でも判り易いように攘夷を合言葉にしている。理屈よりも攘夷という機運を利用して、全国的に広めて最後は倒幕である。勤王派の公家の親玉は昨日輿に乗っていた三条実美。(翌年には長州と共に京を追われるのであるが)
6月に薩摩派の勅旨要求のほとんどを幕府が飲んだので、強気になったのであろう。しかし、6月の薩摩が同行した勅旨は、薩摩派の公武一和派(公家は近衛)の要求なので、「攘夷」なんて入っていない。
自分たちのスローガンが入っていないんじゃ困るというので、三条実美天皇は攘夷をお望みである」とか、適当なうそをついて、攘夷も認めさせようと土佐の兵を連れて、江戸に出立したのが昨日の話。
竜馬はたぶん島津久光が、勤王ではなく、公武一和だというのを知ったのであろう、薩摩の敵になってしまった、武智の土佐勤王党と距離を置く。

竜馬の目的は商社設立であるので、まずは船である。しかし、蒸気船を保有する薩摩や長州では、藩士ではない竜馬は乗れない。で、幕府の船に目をつけたのだろう。
幕府や役人体質なので、船が重要視されたことは無い。従来の幕府では、船の部署なんて下っ端で、しかも船酔いが激しく過酷な役目。当時の土佐でも、参勤交代で江戸に行くのがつらくていやだと、家禄を減らされても仮病を使う上士がたくさんいたという。より大きな幕府であって、より過酷な船乗りであれば、希望者はいないはずって思ったんだろう。