解説:法律信仰

わかりやすい例が、ネットマナーである。

マナー違反であると、怒ってわめき散らす奴が、時にいるが、そいつの理屈が、この法律信仰と同じである。

「私はあなたの書き込みが原因で怒っている。」これは、明白な事実である。客観的事実といってもよい。

しかし、「私」が怒る理由というのは、「私」が怒りっぽいという理由がとても多い。しかし、「私」は本人であるので、私以外では考えることができないので、自身が怒りっぽいから怒っているとは考えない。マナー違反な書き込みが原因で判断基準である「私」が怒っていると、原因は「マナー違反な書き込み」にあると判断する。

確かに、原因は「その書き込み」ではあるが、それがマナー違反かどうかは、客観的な検証が必要なはずである。が、しかし、「私」が怒っているという事実が、紛れも無くあるのである。

そもそも、自分を客観視できるような、できた人間は怒らない。宮沢賢治も「決して怒らず」と理想を歌っている。理想に達していない人間が怒るのである。

であれば、原因は「私」を怒らせた書き込みにある。その書き込みで怒っているのだから。

かくして、「私」が怒った場合は、全て非は書き込みに生じる。その理由はネットマナー違反ということになるのである。

客観的には、怒りっぽい奴が騒いでいるだけなのだが、怒っている「私」にとってみれば、マナー違反されたのだから当然のこと。むしろ、悪を見逃してはいけないという正義感も持ってしまう。

同じ理屈で、都の条例という「ネットマナー」が成文化されると、PTAのおばちゃんがだめと思う全ての図書は、発禁処分されてしまう。

この手法は、法律信仰という暗黒社会で、役人によって広く一般に使われている手法であるので、洗脳されている多くの主権者様は異を唱えない。