廃止すべきは科挙制度(国家公務員試験制度ともいう)


別宮さんの「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦を読み始めているが、日露戦争のころ、士官学校を卒業したやつらが、軍の指揮に加わるようになって、かなりトンチンカンをやり始めたことが、書いてある。
今まで、薩長に独占されていた権力を、一部であれ、薩長以外の出身者が握れるということで、意気込みもあっただろうが、失敗は許されない。
失敗して士官学校を潰されちゃっては、一大事である。
しかし、馬鹿なので、失敗はどんどんする。
どうすればいいか。
失敗じゃないって言い張ればいいんである。
これの積み重ねが、昭和20年ごろまで続いた軍における出鱈目の原理である。
軍に置ける出鱈目は、その権力を米国が握ることによりいったん消滅したが(制度は残っていることはよくわかる)、学校の授業の成績がいいだけの、意味の無い能力を持つものが権力を振るえる官吏になるっていうところは、変わっていない。

やることは、出鱈目であり、気をつけるべきは、失敗を認めないこと。

マスコミは、ちょっと失敗するとギャーギャー騒ぎ立てるが、この制度では、失敗がマスコミに公表されることは無い。また、失敗を失敗じゃないって説明を理解する記者を、例えば記者クラブ作って優遇するなんてこともしている。
だから、政治にはつき物のちょっとした失敗が、この出鱈目の世界ではないので、あるとすれば、内部の権力闘争で、負けたものを処罰する名目なので、出鱈目社会のマスコミは大騒ぎする。

試験には必ず正解がある。答えを思い出す時間は短い、応用問題でもいくつかの知識の組み合わせなので、10分程度である。
どんなに長くても1時間あれば解決する。

世の中、そんなものじゃないでしょ。
企業の戦略を決めるのに、1時間会議して正解が得られるなた誰も赤字にはならない。
例え、1年でもいい、会議すれば正解が得られるのなら、誰もが会議する。
よく分からないことを試行錯誤でやっているのが、普通のことである。正しいことである。ま、基本があるので、大枠ははずさないで、その中で試行錯誤、で、場合によっては、枠自体も考え直すとか、正しく十分に修行した人の直感の部分である。

こんなのは、試験科目にならない。

いじめ問題だってそうである。何十年現場で専門に対応や研究がされ、うまくいく現場もあるし、そうじゃない現場もある。指導方針はまったく同じでも、実践する教員のスキルが違うし、学校の住環境も、生徒の資質も現場ごとにまるで異なるからである。

って、長いなぁ。

要は、答えのある問題をいくら積み上げても現場では不十分なのに、答えのある世界の住人(ゲームの世界にはまり込んだニートと同じ)が、政治で権力振るうから、日本は変になっていく。

真理としての、永久に変わらない答えの存在する世界なんて、現実にはないのに、答えのある世界に住んでいるやつらが、仕切っているから変になる。
普段頭なんて使っていない多数派の主権者は、問題のズバッとした答えを聞くと、妙に感心して納得してというか、ズバッとした答えがあることを、ブードゥー教を信じる土人の様に信じて疑わないし、なので、支持に回るっていうのも、悲劇というか喜劇であるが。