天地人の下種な所

上杉の家臣としての誇りっていうのは、会津に移ってからの話。
信長と父の代から戦った美濃の武将は、屈辱感を持って信長に仕えていたとでもいうのだろうか?
謙信は信州へは5回しかいっていない。関東へは13回である。
北条とは死の前年まで戦っているが、武田とはあの有名な第4回川中島のあと、もう一回いってから、14年も行っていない。
完全に和平がなっていると考えるべきである。
例の北陸出兵も、死の5年前の織田との同盟のためであったが、死の3年前は逆に本願寺を結び、味方同士になって居る。
武田との和平は一向衆との和睦のさらに10年前のこと。
鬼畜米英といっていたアメリカと非常に仲良くなっている今の日本を思い浮かべればいい。

現に勝頼は、何の戦もなしで、春日山の城下まで来ている。(秋に来た北条は、戦で城を攻略した上、景虎の元には氏照本人は来ずに、家臣をよこしている。)

内乱の仲裁をするのは、大国の証である。

ま、甥っ子ふたりの喧嘩の仲裁に来たのに、低姿勢の景勝と比べ、関東管領の跡継ぎをきどる景虎には、「むっと」して、気分を害して帰っていったと思う。
その証拠に、最後は勝頼をたよって信州に向かって逃げてきた景虎を見殺しにしている。裏切って殺させたのも、無益な争いの種を捨てたと見るべきだと思う。

それを、武田と上杉はライバルっていう、大衆に迎合した筋立ては下種。

また、勝頼だって落ちぶれちゃ居ない。徳川家康の長男信康と正妻が武田勝頼と通じていたと、切られるのが翌年である。その事件の前年に当たり、家康が、信長にしようか勝頼にしようか、決めかねていたってことである。ま、表向きは長男を切腹させるが、裏では武田の武将の取り込みというか、仲良しになるというのを家康は続けていた。そして、海道一の弓取りとかいわれて、秀吉から潰されずに済んでいるし、その後の戦でも勝利を収めている。