上杉謙信の手取り川の戦い

おとといの天地人で、謙信死んじゃったので今書くしかない。
七尾城は能登半島にある堅城である。前年の謙信の出兵でも落ちなかった城である。しかし、それは戦争ゲームで考えた場合で、前年出兵した謙信は、地元武将と一向衆の争いの調停に来ていたのであって、信長の様に、一向衆の皆殺しをしに来たのではない。
進軍して、両者の話し合いを取り持っていたのである。
話し合いはちゃんと成功した。
その結果翌年の手取り川の戦いの時は、謙信の進軍を信長に伝える者が少なかった。
話し合いがちゃんとできていたので、それでもなお謙信に反抗するものは少数になっていて、七尾城では、それでも信長に味方しようとする一派は、謙信到着と同時に誅殺されている。
そもそも柴田勝家の目的は、七尾城の援軍である。あっという間に目的は実現不可能になっている。すばやい謙信は、七尾城から行軍で3日の距離にある末森城も別働隊で七尾城と同じ日に攻略している。
前年の話し合いと謙信の強さで、考えられないスピードで謙信は進軍していた。
七尾城から手取り川までの城と行軍換算の距離。
七尾城−1日−石動山城ー2日ー末森城−1日ー高松城ー1日ー津幡城ー1日ー金沢城ー1日ー(犀川松任城(手取り川)ー1日ー和田山城御幸塚城。
目標を七尾城の手前の末森城の支援じゃなく(謙信に奪われちゃっているので)攻略に変えて、まずはその4つ手前の松任城まで進軍しようと、手取り川を渡ったところ、松任城にさえ謙信軍が来ていて、あわてて引き返したというのが、手取り川の戦い。

ありえない速さで引き返して明智軍を破った秀吉の中国大返しに似た速さ。秀吉軍は味方の領地を引き返しているが、謙信軍は敵地を行軍しているので、それ以上なことはいうまでもない。柴田勝家を責めることはできない。

謙信の出陣の目的は、能登石川の要請で、織田軍を追い払うことであるので、織田軍が、手取り川の先の加賀にまで撤退すれば、目的達成。(織田軍に完全に支配されている加賀からは出兵要請はないので)引き返すのは当然。