八重の桜18:徳川慶喜の1年天下
慶応2年の末に孝明天皇が崩御され、翌年末の王政復古の大号令までの(明治は2年後)一年です。
慶喜が将軍になるまでの、京都での4年間の活躍は、この関白おじさんのおかげであります。
将軍中心の政治は、井伊直弼が強行に推し進め、安政の大獄でありますが、桜田門外の変で、既に挫折しているのです。
その後、安藤信正と家茂は、孝明天皇の妹を迎え、公武合体政治。
これも、坂下門外の変で、信正が失脚すると、薩摩が出てきて、慶喜が復活しますが、それは、公武合体の、半分である、武を、家茂に代って担っただけ。
また、江戸には、井伊直弼の残党、将軍家茂の親派もいます。
将軍後見職として復活した当時の慶喜の力は、実質半分の1/3すなわち、1/6だったのかもしれません。
それが、家茂の死で2/6に。
孝明天皇の死(正確にはおじさんが、孝明天皇の関白から、明治天皇の摂政に昇格した時)で5/6になりました。
おじさん(二条斉敬)が孝明天皇の関白だった頃は、いわば、朝廷の副社長。
このおじさんは、孝明天皇の死後、幼帝の摂政になります。
これで、完全に朝廷はおじさんの意のまま。
なので、孝明天皇の死後、戊辰戦争までの1年間は、慶喜と摂政のおじさんの天下だったのです。
土佐はそれを見ての慶喜への恭順を示したのでしょう。
なので、大政奉還は、井伊直弼一派、家茂の残党を掃討する(いずれも、拠り所は将軍、江戸では、田安家の家達が、家茂に指名された将軍という事で、大政奉還後は16代様と呼ばれている)総仕上げだったはず。
天皇側は摂政のおじさんが握っているのだから。
誤算は、おじさんが摂政していた幼帝のクーデター(岩倉具視)。
慶喜のおじさんが摂政をしていた幼帝が殺されたとすると、腑抜けといわれた慶喜の行動は全て納得できます。
このクーデターで、慶喜は、自分の政権の瓦解を覚って、江戸で謹慎。
武力で上回れば、クーデターも覆せたのですが、逆転を狙った戊辰戦争は大敗してしまいます。