江−サロン・ド・聚楽第


秀吉の時代、有力大名の奥方は京に集められている。

人質として、座敷蠟に入れられていたわけではない。

奥方として華やかな外交をやっていたのである。

場所は聚楽第

聚楽第の前期は秀吉。

87年に完成し、翌年天皇行幸を得ている。

その後政治の中心。集められた奥方達も華やかな外交をしていた。

前田利家の奥方、お松の方、武田勝頼の娘で上杉景勝の妻、菊姫前田利家の娘で、五大老の筆頭宇喜田秀家(家康が筆頭といわれたのは、関が原で家康が勝ち、秀家が敗れたからである)の正妻豪姫、勿論三姉妹、細川ガラシャ、記録には残っていない毛利輝元の妻、南の方等々。

大奥なんてもんじゃない豪華なメンバーが、日本史の中でのベルサイユ宮殿に匹敵する聚楽第で、華やかな外交をやっていたはず。

92年からは関白を譲られた秀次。

秀次も天皇行幸を得ている。

秀次に肩入れしていた、伊達、蒲生、最上なんて武将の奥方様も加わって、最も華やかだったはず。

三年で秀次は殺されるが、サロンは伏見城に移っただけ。

この女政治は、秀吉の死後、大阪城へ移っていく。

その中心は、いわずもがなの淀君

江は、成金の箱入り娘じゃないんだから、嫁ぎ先の屋敷に引きこもって悶々となんかしちゃいない。

サロンの場が、聚楽第から伏見城に移って、上手くやるために、大忙しだったはず。

こんな都人のサロンに出せる女子の居ない徳川が、江をスカウトしたのが、秀忠との結婚。

結婚直後は、サロン活動が忙しくて、子作りなんかしている暇がなかったというのが、実態。

多忙な女性外交官でありますから。

1年してようやく徳川のためのサロン活動が軌道にのったので、安心して子作り。

この華やかな外交を描いてほしかったというのは、彼女にも、おにいさんにも無理なお願い。

徳川が淀君と一緒に抹殺してしまった歴史であるから。