江(利休切腹2)


「普段通りにお茶を立てる」事を理想とした利休であります。

対して秀吉は、自らの権威を示すための茶です。

茶を権威に、育てたのは信長も同じで、利休も一緒になって、茶で如何に権威を保てるかを、腐心していったはずです。

お金で言えば、蓄財ですね。何も無いところから何かを生み出す。

子供のものと馬鹿にされ卑下されたアニメ漫画が、紛れも無い日本文化に育つのと同じです。

アニメは子供向けと決め付けて、そこから動けなかったアメコミとの、ほんのちょっとした違いです。

アニメは子供だけのものじゃないっていうところから、文化になります。

秀吉は、アニメは子供のものというのを、絶対に変えなかった師匠です。茶は、権威付けのもの。

宮中や、神社仏閣に残るいろいろな行事と同じです。

出雲のお国は、歌舞伎への道を作りました。

ちょっとした違いなんですが、そのちょっとした違いが、命なんです。

「子供向けじゃないアニメもあるんだ!」っていうためには、秀吉と別れないといけなかったのです。

「普段通りにお茶をたてる」(このためにはいい普段をすごせていないといいお茶はたてられないのですが)を理想とした利休です。

切腹の使者も、もちろん秀吉から、侘びを入れれば許すから、侘びを受け取ってこいと、言い含められていたはずです。

が、心あるものは、地元堺の自治の象徴の堀を、自分のせいで埋められてしまった利休の深い傷を知っていますから、使者なんかにはたちません。

うまくことわっているはずなので、使者を引き受けたこと自体その人物が二流であることの証です。

口上を告げた後、「茶の支度がしてある」といわれれば、「ああ、茶の席でわびをいれるのか」って、思ってしまう。

利休は、普段通りに茶をたてたのだろう。

使者には、次にすることが切腹であることを微塵も感じさせない。

見事なお手前だったはずである。

普段通り茶を立て、普段通りに腹を切る。

ま、普段、腹を切るなんてことは無いが、日常些事のごとくに腹を切ったんだと思う。

テレビではちょっとだけ、その雰囲気が出ていた。

白装束なんてもちろん着ちゃ居ない。当たり前である。(白装束に着替えては、どんな馬鹿な使者でも、切腹に気がつく)

雰囲気が出ていたのは、最期が、茶室の戸を閉める場面だったことである。

利休の説得は誰もが望んでいたことであるので、「説得に来ました」と二人だけで訪問して、直江兼継に告げれば、そのまま通れたはずである。

軍勢を率いてくるのを、防いでいただけである。

(秀吉にとっては茶は権威なので、師匠が殺されるとなれば、軍勢を率いて奪還し、唐天竺にでも、亡命させるのが、武将である弟子の、当然の道なのであります)

水戸黄門じゃあるまいし、あの格好は、作者のバカまるだしでありました。かわいそうなのは、役者であります。