江:信長の葬式
光秀を討った信孝様を、信長の長男信忠の子、吉法師の後見人として体制を決め、領土の振り分けも決まり新織田家体制は出発した。
信長の出身地の尾張は、一応兄の信雄に。
そして信孝自身は、信長が天下府武を宣言した美濃の岐阜城に入って指揮をしていくことになった(甲斐や信濃に応援に入るには京じゃ遠すぎる)。
しかし、皆国替えでありますから、新しい領地で、大変。
今見たいな平和な時代ではない。
織田家も力づくで、平定していったのである。
それでも、河川の修復とか街づくりもやった。新しい領地でおのおの大忙しである。
遠方の地、甲斐を守る滝川一益は、北条の大軍を迎え撃っている。
信濃に残った河尻秀隆は、家康が武田の武将を懐柔していることを知らない。
なので、「百日法要は、慎ましやかに」って、お市は考えたのであろう。
お市が筆頭家老勝家と一緒に執り行うが、各自忙しい中あえて出席する必要は無いと、触れたと思う。
そこで、秀吉は、「地元で法要をしてよろしいか?」と聞いたと思う。
「殊勝な心がけである」ともちろん許す。
で、勝家とお市の百日法要に1日遅れて秀吉も地元で百日法要を行うが、この許しを、あえて拡大解釈。
法要の準備途中に「お葬式はなさらないのか?」と聞く僧も居たのだろう。
「百日法要とは別に後日執り行う」って答えたんだと思う。
しかし、法要と葬式は違う。
葬式は、会社で言えば株主総会である。
社長が死んだ直後の株主総会では、時期社長が決まる。
それを、秀吉が日本の中心地の京で執り行ったのである。
怒ったのは、軍事的中心地、岐阜にいた信孝である。
反逆であるから、怒って当然である。
すぐさま触れを出して、秀吉討伐の兵をあげたが。
が、触れをもらった武将は、懲りていたのである。
山崎の戦で、激戦の末、光秀を討ったというのに、なんの恩賞もない。
「もう、ただ働きはこりこりなのである」
気持ちというよりも、今度ただ働きしたら、破産である。
各支社長としては当然の判断であった。
金を持っているのは、経理部長の秀吉であることは、あの、派手な葬式で十分に理解した。
戦に出陣して、金をちゃんと払ってくれるのは、秀吉のほうである。
触れは出したものの、武将が出陣しなければ、如何に武略では信長を凌ぐかもしれない武将であっても、やりようが無い。
皆、秀吉に味方するのを見て、若い信孝は愕然としたと思う。