江第3回:築山殿信康裏切りの事情


この前年に、第2次反信長包囲網による一斉攻撃が予定されていた。

主力である上杉謙信が、突然死ななければ、信長は駆逐されていた。

あの、琵琶湖東岸に作られた安土城は、上杉謙信の上洛戦を鳥瞰して指示するに、絶好の位置にたてられたものである。

安土城を南下すれば京であるし、北上すれば、上杉軍の兵糧が陸揚げされる若狭湾を狙える。また、船で自由に移動攻撃できる。

この年の総攻撃は、謙信の死でも止まらず、毛利は、陸では植月城を落城させたが、水軍は鉄船に大敗、内通を約束した荒木村重(家来には、山崎の戦いで光秀軍を撃破した中川清秀と関が原で家康を震え上がらせた島左近がいます)は露見を観念して、遁走、石山本願寺は健闘していたが一旦和睦、そして、謙信の死後の混乱をすぐ近くで感じている武田勝頼は、軍を動かさずに自重していた(北条が家督を継いだ北条からの養子上杉景虎を通じて越後を乗っ取ろうとしていた動きに備えたのだろう)。

しかし、信長総攻撃の準備はしていたはずなので、当然織田攻めの先鋒になるべき家康に働きかけていた。

家康の決断は、家を割って、長男は武田に、自身は織田にである。戦況によっては、もちろん長男側に寝返るつもりであった。(家康は関が原でも同じように家を割って、譜代の家臣たちは次期将軍秀忠に指揮をさせて、別ルートで遅参させて、自分はほとんど豊臣の家来を指揮して戦かっている。小早川秀家が裏切らなかった場合の保険をかけている)

7年前に、第一次の反信長包囲網の最初の戦いで、織田との連合軍で、武田軍に大敗した家康である。

当然の判断である。

上杉謙信が、あと1年生きていれば、その判断は正しかった。

九鬼の鉄船が完成しなくても、その判断は正しかった。

しかし、反信長攻撃の最初で、謙信の死、次の毛利の上月城戦では、反信長が勝ったが、直後の本願寺をめぐる海戦で鉄船に大敗、裏切りを約束していた荒木村重も遁走、謙信の死に動揺した勝頼は動かない。

謙信さえ死ななければ正しかった判断の間違いを認めざるをえなくなってしまったのであります。