無いものがある話
哲学だけで考えると「無いもの」は無いのであって、考えが及ぶというのは、それは「無いもの」じゃなく、あるものだ。
なんてあたりで、例えば、頭の悪い哲学者の池田晶子なんかは、グルグルと循環してしまうのであるが。
例えば、仏教なんかでも「無」と「空」は違うらしいのであるけど。
将棋は、無いものを将棋盤の上の指し手によって、明らかに証明してくれる。
例えば、昨日の佐藤さんの将棋での佐藤さんの指し手の「▲16銀」というのは、無いものを佐藤さんが持っている証明であります。
その存在を確信できるのは、少なくともNHKアナウンサーでは一番将棋の強いらしい長野アナウンサー以上の棋力が必要で、そうであれば「ものすごい手が出ました」って、驚くことができる。
そして、佐藤さんには、われわれに見えていない物が見えていることを理解できるのです。
もう少し上の、羽生さんクラスになると、人類最強といわれる木村八段がいうように、「なぜ相手が形勢を損ねたのかがまるでわからない」って言う状態になります。
羽生さんクラスになると佐藤さんの「▲16銀」に相当する手がどれなのかさえも、判別できません。
が、しかし、どれか、もしくは、手全体が、羽生さんには、われわれに見えてないものがはっきりと見えていることの証明になります。
だから、将棋盤は、無いものを認識できるスクリーンの様な出力装置なのであります。
もちろん、見えないものは見えないままですよ。
でも、将棋のよさはこういう所にもあると思います。
例えば、景気対策なんて考えれば考え付いて、実行できるなんて考えは、思い上がりだってわかります。景気対策というのはあるはずなんでしょうが、とっても考え付かないって言うのが、正しい思考だって理解できます。ましてや、景気対策として公共事業をドバッと増やすことだと、信じて疑わないなんて、馬鹿なヤツだってことが理解できます。