竜馬伝


竹刀を発明したのは、千葉周作だと思っていたのだが、ネットで確認するとその百年前の中西忠蔵子武。なら、土佐の道場でも使っていて、不思議は無い。

が、道場が盛んになったのは、攘夷ブームである。
もうひとつは、打ち込み稽古が可能になったこと。

それまでは、剣術は、いまでいう古武道の様に、型稽古である。
素振りと、型である。
飽きてしまう。

でも、実際に打ち合うと、木刀では骨が折れる。
打ち所が悪いと、死ぬ。
不具者には、すぐになってしまう。

それが、竹刀の発明で、打ち込まれると痛いだけで済むので、今の剣道の様な落ち合い練習ができるようになって、力をもてあましている武士の若者の間に広まった。(しかし竹刀での上手下手は、実戦とは異なるので、型稽古と素振りの方が役立つという当時の年寄りの言葉は正しい、現に幕末では面の打ち込み練習しかしない示現流が一番力を発揮した。間合いの外から、考えられない速度で走ってきて面を打つ。竹刀では、自分の竹刀で受けるとポイントは取られないが、実戦で示現流に対すと、自分の刀の峰と共に相手の刀が額にめり込む)

そして、時々船でやってきて、乱暴していく外国船に、ちゃんと立ち向かおうっていう、攘夷。日本を守るのはわれわれ武士の役目であるって、機運。

手段と目的とが提供されて、広まった。

今で言う右翼に近いだろうか。

でも、当時は街宣車がないので、五月蝿くは無い。

ちょっと前の、学生運動にも似ている。

武士は暇なのである。特に次男以降は、役所の暇なお役目さえない。祭りとかは、そういった若者のエネルギーのはけ口だったんだろう。
祭りよりは、攘夷のほうが、かっこいい。
練習の合言葉は「土佐を守るんじゃ」だったろう。

上士下士の対立は、それほどじゃなかったと思う。もう、200年も続いているのだから。また、上士は、あの一豊の妻の夫の家来たちである。あんなに威張っていたら、反乱が起きて、幕府からその責めを問われ、取り潰しされちゃうので、とっても気を使っていたはずである。

ま、幕末の時代に土佐はどうすべきかという献策は、下士から出されたものはことごとく退けられたと思うが。